一般の人々が桜を愛でつつ日常を過ごしている公演にて、ドイツからやってきた映像作家のアリサと共に舞踏の撮映を行った。
できれば夾雑物のない画面構成にしたかったが、周囲には散り始めた桜を惜しんで最後の花見を楽しんでいる人々が座っていたり、自転車で通り過ぎてゆく人たちもおり、さらに中学校の吹奏楽部らしき少年たちが調子外れの音を奏でていたりする。
これじゃあ私と桜だけを写すアングルは難しいよねと二人で話したが、人気のない山の中でもない限り無理だよねということになり、撮映を決行することにした。
ただ、衣装と白塗りメイクの効果は抜群で、すっと桜の樹を背景に立った瞬間から周囲の日常環境は意識から遠ざかる。しかも、異様な出で立ちの人が外人の撮影するカメラの前に立っているので、それを察してか、カメラの間に入ってくる人もいない。
だだっ広い公園、頭上に広がる青空、青空を遮って最後の花をようやく保っている桜の樹の枝、砂利や折れた枝や桜の花びらが敷かれた大地、人々のさざめき。
どこから即興に入ってゆくのかが常に迷うところである。
周囲の環境(足裏に感じる地面の触感、風、空気の感触や全身で感覚する360度の風景。特に背後。)をまず体に入れる。
そこからどうするのかだ。単に環境を感じたところで踊りにはならない。下手をすると、ぼんやりしてるだけの人になるか、自分は感じてます、それで踊ってますというような稚拙なものになってしまうことは幾多の経験から分かっている。
大体が、現代文明に汚染され、日常を生きている体がそんなにすぐに自然と一体になれるわけはない。断言しても良い。もちろんシフトするための訓練を長年行ってきているので、何もしていない人に比べればマシかもしれないが、それでも簡単ではない。
何かにフォーカスせねば、拡散してゆくだけ、それに逆らおうとして動けば単なる動きになってしまう。
しかしカメラは情け容赦なくこちらを見つめている。そうか、このカメラの目線になって、一幅の美しい動く絵に成ってみようと考え、ラインとアングルを重視して踊り始める。しばらくそうして動いているうちに自分で物足りなくなってきて、質感やスピードを変えてみる。そうして踊り続けていたら、体に積み重なってきた痕跡が勝手に流れを作り始め、自分でも思いがけない動きが次々と出てくるようになる。面白いものである。
二十分くらい踊って一休みした。
映像をチェックすると、大体思った通りの上がりであった。
二回目は、すでに場に残った自分のエネルギーの痕跡があり、体にも踊りの記憶があり、スムーズに踊りに入れた。一分の短い動きを数回。
最後に、ただ何もせずにカメラの前に立って欲しいというリクエストに応えて、立つ。
空、大地、風、その中にゆるりと存在するだけの体。ここにこうして立っている、何かの縁があって映像を撮ってくれる人がいる。周囲の空気はこの上なく優しい。何故か急に感謝の気持ちが湧いてきてふんわりと笑顔になり、背骨の中心に光がすうっと通った気がした、すると、その瞬間、風が吹いてきて、背後から桜の花びらの大群が押し寄せてきたのである。
アリサが興奮して、「ゆり!この中で踊って!」と叫び、私もこの奇跡的な桜吹雪の中で踊った。
既に何の迷いもなかった。
ただ、神のくれた奇跡の時間と共に踊るだけだったのだ。
これまで長い年月に渡って培ってきた踊りへの思いや、訓練という努力に対して、神がご褒美をくれたのだ。
アリサも大満足し、二人で互いにお礼を述べあい、感謝の気持ちで、公園を後にしたのだった。
素晴らしい時、素晴らしい人々、ありがとう。
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